当財団の歴史 (2/10) 土肥慶藏 語録

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土肥慶藏 語録

土肥慶藏は号を鶚軒(ガッケン)と称した。
鶚とは「ミサゴ」のことであり、タカ科の水辺の鳥であり、英語ではオスプレイ(osprey)である。沖縄に配備された米軍輸送機オスプレイは、「ミサゴ」という意味である。

ここで土肥慶蔵の雅号鶚軒の由来を述べる。

神田錦町の裏長屋に、古道人総生なる漢学者がいた。明治19年1月6日に大学予備門の学生である土肥慶蔵がここを訪問して、漢学の弟子にして貰ったのである。総生は岩橋 寛が本名で幼名は富三郎であり、北総下埴生郡田川村の人である。北総から出た書生という意味で総生と称したものであろう。家は代々里正(村長)であった。独学で勉強し漢学の大家となったという。ある時、この先生に自分の堂号を付けて呉れ、とお願いしたら、鶚鷙堂(がくしどう)と命名して下さった。これは後漢書の「鷙鳥百を累ねるも、一鶚に如かず」から取ったものである。本人曰く、土肥慶蔵の雅号「鶚軒」はこれの転化であるという。鷙はあらどりのことであり、猛禽類の総称で鷹や隼などをいう。その中でも特に強いのが鶚(みさご)であり、鷹や隼が百羽で掛かっても鶚には勝てないという故事である。鶚鷙堂では鶚も鷹や隼と一緒くたになっているので、一番強い鶚のみを採って鶚軒と号したものと思われる。これが鶚軒の由来であり、古道人総生の命名と言ってよいであろう。

彼は1898(明治31)年6月28日東京大学医学部皮膚科教授となり、1926(大正15)年6月28日退官しており、実に28年間に渉り東京大学教授を務めている(図2)。
彼は32歳という若さで教授になったので、常に向学心に燃えており、医局員と伴に皮膚科学を学ぶという気持ちだったらしく、己にも厳しく医局員にも非常に厳格であり、怒鳴られない医局員はいなかったという。

土肥慶藏は大変な博学で、沢山の語録を残している。
その代表が以下の語録である。

土肥慶藏 語録 (その1)

其の一
大学は学問の府である。学問に妥協は無用であり、胡麻化しは寸毫も容赦してはならぬ。
其の二
天才は勉強の別名なり。 (土肥慶藏の座右の銘)
其の三
人間の運命の一寸先は闇である。然し努力の頭上には いつも明星が光る。
一にも努力、二にも努力であり、努力して “職務に忠実たれ”。
是が人生出世の最大要領である。
「人生運命は論ぜず。只勉励努力の集積あるのみ。」
其の四
学者の立場にも時期がある
初期に於いては、学問と経験とを蓄積する。
中期に於いては、之を実験に試みる。
而して晩期に至っては退いて静思黙考し、過去に於いて
体験したものを多少なりとも将来に遺すべき工夫が大切
である。

大変含蓄に富んでいる。
その一は、彼の学問に対する姿勢をよく示している。
その二、天才は勉強の別名なり、は彼の座右の銘であり、勉強により天才は作られることを表している。
その三が最も素晴らしい。人間努力が大切だと言っている。
ある程度歳を取ってくると大変含蓄の深い言葉であることが、段々と判って来る。「人間の運命の一寸先は闇である。然し努力の頭上には いつも明星が光る。一にも努力、二にも努力であり、努力して “職務に忠実” たれ。是が人生出世の最大要領である。人生運命は論ぜず。只勉励努力の集積あるのみ。」
その四は、功なり名遂げた後に、後進に自分の得たものを伝える工夫が大切だとしている。

土肥慶藏は漢詩をよく作った。
これは真理の探究のために医局員に贈った漢詩である。

土肥慶藏 語録 (その2)

土肥慶藏 語録(その2)

三十歳 芸に游ぶ
一燈 唯 癖を知る
理 已に古今を分かつ
道 自ずから咫尺に在り

自分は30年間皮膚科の真理を追究してきた。これからは諸君の時代であり、真理は二つはないので、鶚のようにしっかり先を見据えれば、必ずや真理が小生の足元に落ちていることに気付くであろうというもので、若者を鼓舞する漢詩である。

(図2)東京大学皮膚科教授 土肥慶藏
(図2)
東京大学皮膚科教授 土肥慶藏
(在任期間 1898(明治31)年6月~1926(大正15)年6月)
鶚軒(ガッケン)と号した。
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