当財団の歴史 (3/10) 土肥慶藏 花柳病関連の事績

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土肥慶藏 花柳病関連の事績

土肥慶藏は欧州で皮膚科ばかりでなく泌尿器科をも学び、東京大学医学部皮膚科教室に泌尿器科室を設け、 泌尿器科を“我が連れ子”として育んできた。
彼は一年の中の一学期間、泌尿器科の講義をし、泌尿器科の実習も行った。泌尿器科は淋病を主に対象として発展した学問であり、本邦では土肥慶藏によって導入され、発展した。

このように、土肥慶藏は本邦に於ける 「皮膚・泌尿器科」 いわゆるウロデルを創始した。
即ち、彼は皮膚科医であり泌尿器科医でもある。花柳病(性病)にも強い関心を持ち、当時の皮膚病科が看ていた梅毒、癩病ばかりでなく、淋病などの泌尿器科的性病をも熱心に勉強した。

土肥慶藏 花柳病関連の事績 その一

彼は1898(明治31)年6月 東京大学皮膚科教授を拝命し、明治33年(1900年)には吉原病院長を兼任している。
吉原は有名な花街、花柳界であり、吉原病院はおもに芸妓の性病を治療した。このように教授就任のごく初期から性病にはかなりの関心を持っていたことが判る。

1903(明治36)年4月1日、第3 回日本皮膚科学会総会で、日本花柳病予防会設立が栗本庸勝により建議され、1905(明治38)年4月3日に日本花柳病予防会が本郷中央会堂で発会式を挙行した。

翌1906(明治39)年4月、第1 回日本花柳病予防会議が開催された。
土肥慶藏は1911(明治44)年2月ドレスデンで開かれたドイツ花柳病予防会議に招待された。1920(大正9年)10月17日、日本花柳病予防会は日本性病予防協会と改称された。

土肥慶藏 花柳病関連の事績 その二

1921(大正10)年10月22日、財団法人日本性病予防協会が正式に発足した。さらに1921(大正10)年12月1日、機関誌『體性』を創刊し主筆となった。土肥慶藏は非常に筆まめで細かな記事まで書いており、その校正も自分自身で行った。

1924(大正13)年1月27日、花柳病予防国際連盟がパリに創設された。1924(大正13)年3月、日本において花柳病予防法案が発布された。
土肥慶藏は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災により罹災し塗炭に苦しむ民衆のために、1924(大正13)年11月、新常盤橋畔に性病無料診療所を開設した。さらに1925(大正14)年10月、パリの国際花柳病予防協会 第2回総会に出席した。

1926(大正15)年6月28日、東京大学を退官。
1928(昭和3)年7月17日、彼には実子がいなかったこともあり、私財を擲って日本性病予防協会押上簡易診療院を開設し、院長として就任した(図3)。
土地160坪は借地であったが、建築費はすべて彼が拠出した。
1931(昭和6)年11月6日、直腸癌の肝転移にて死去。享年65であった。

(図3)日本性病予防協会押上簡易診療院前にて
(図2)
日本性病予防協会押上簡易診療院前にて。
右端が土肥慶藏。
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