当財団の歴史 (4/10) 日本性病予防協会へ

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日本花柳病予防会を経て、日本性病予防協会へ

1903(明治36)年4月1日、本郷中央会堂 に於ける 警察医長 医学士 栗本庸勝 による 日本花柳病予防会設立の意見 を左に掲載する。

1905(明治38)年4月3日、本郷中央会堂に於ける日本花柳病予防会の発会式は、会長芳川顕正、 副会長大澤謙二を迎え、初代理事 土肥慶藏、遠山郁三、岡村龍彦、大野豊太、川上元治郎、野田忠広、窪田静太郎、栗本庸勝、山根正次、寺田織尾、笹川三男三の11名、そのほか朝野の有志百余名の来会者をもって開催された。勿論、実質的な主催者は土肥慶藏である。

日本花柳病予防会の発会式祝辞は、内務大臣子爵 芳川顕正、文部大臣 久保田譲、中央衛生会長男爵 石黒忠悳、貴族院議員 医学博士男爵 高木兼寛、東京帝国大学医科大学長 医学博士 青山胤通、東京帝国大学医科大学教授 医学博士 緒方正規、内務省警保局長 仲小路廉、内務省衛生局長 法学士 窪田静太郎らによって行われ、綺羅星の如き名士の出席が得られている。

日本花柳病予防会の発会式に於ける発表演題 は、

1) 花柳病予防の方法如何  (衆議院議員 医学士 山根正次)
2) 花柳病と法律  (東京帝国大学医科大学教授 医学博士 大澤謙二)
3) 梅毒に関する最近の細菌学に就いて  (伝染病研究所長 医学博士 北里柴三郎)
4) 酒と花柳病  (東京帝国大学医科大学教授 医学博士 片山国嘉)
5) 売娼の変遷  (警察医長 医学士 栗本庸勝)
6) 花柳病の健康診断成績  (内務技師 医学士 野田忠廣)

など錚々たるメンバーであり、特に北里柴三郎の出席は土肥慶藏の交友の広さを物語るものであろう。

財団法人日本性病予防協会の発足 は、1921(大正10)年10月22日であるが、土肥慶藏らはそれよりずっと以前から、私的団体として性病予防の活動をしてきた。

1906(明治39)年4月8日、第1回花柳病予防会議において、散娼および集娼の制度の利害得失を考究し、各地方に於ける検梅方法の確立を論議した。同年10月には第1回花柳病学講習会に98名の聴講者を集め講習し、以後、毎年開催し、1912(大正元)年(第6回)までに合計420名の医師に新知識を注入した。

1908(明治41)年4月26日、第2回花柳病予防会議において、原敬内務大臣に以下の3点を建議した。
 1) 娼妓健康診断の方法程度を画一にするの議
 2) 娼妓病院を府県立とするの議
 3) 密売淫者の取締令を制定し、之を励行せしむるの議。

財団法人日本性病予防協会は内務省の認可を得て、1921(大正10)年10月22日正式に発足しているが、それと相前後して、全国各地に支部が結成されている。
 ・1921(大正10)年7月10日 広島県性病予防協会 発足
 ・1921(大正10)年12月3日 愛知花柳病予防協会 発足
 ・1927(昭和 2)年 金沢花柳病予防協会 発足
 ・1929(昭和 4)年 岡山性病予防協会 発足

売娼問題と云うことは最も重き問題である。或は昔は厳刑に処した時代もある。或は道徳を以って之を治めようとした人もある。併しながら、其結果と云うものは果して如何でありましょう。

既に万国花柳病会議と云うものがある以上は、日本人に対する所の花柳病予防の方法がないか、或は一種特別なる方法がありはせまいかと云うことは、此皮膚科学会の最も責任として御研究下さらんければ成らぬ事と考える。此花柳病予防会議を創立すると云うことに就ては、是非共御賛成を願わなければならぬと考えまする。

日本花柳病予防会設立の意見
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